帰りぎわ、散歩がてらに通った公園は手持ち花火に煙って霧のよう。花火は好きだ。見るのが好きとか、やるのが好きとかでなく、こういうよく分からない愉しみに人がはしゃげるくらいの季節として夏がある、のが好き。

こんなエモい系の風景には、Xだとかインスタだとか、SNSで一筆放り投げるのが似合うよなと思う。思いながらも、投稿しないと決めちゃっているので、やむなくここに文章を書く。
要らん厳格さだと人は(もしかすると過去や未来の自分も)笑うかもしれないが、おおげさに言えば「文」を司るひとりとして、瞬発的なエモーションに頼んなきゃいけないSNSでの表現は、少なくともしばらくはしないと決めた。そうしたいから。そうしたいと僕が思うから。noteも娑婆じみてきてあんまり好きじゃなくなったのでちょうどいい。心地よい遊び場はいつだって、よほど気を付けてない限り、いつしか興が削がれていく。
とか言っていると暗くもなりそうだが、そこまで暗い話はしません。それも決めている。文章で暗さや絶望や悲嘆を表現するというのは、僕にとって簡単すぎる選択肢だし、なにより、かつて憧れたブログヒーローたち——「ギターヒーロー」という言い方が市民権を得てるんならこういう表現もあっていいだろう——はそういうことをしなかったから。
じゃあ暗い心はどこに行くのかといえば、花火の光と共にどっかに消えていけばいいのである。切ないロックンロールでも聴きながら、苦いジュースを左手に掲げ、ゆらゆら街を歩いて、歩くうちに空に消えていくのがいい。音楽はそのために味方でいてくれるんだし。
それにしても、渦巻く複雑な感情みたいなのを自分の胸中に自覚したときって、この感情って果たしてヒトが生き残るためにどう必要なんだろうか?とかいちいち考える。考えても結論は当然わかんなくて、人間ってめんどいな、とだけいつも思う。どんな生き物やねんと。
だから生物学的なことへの興味の矢印がいずれもっと育って勉強できる日を、指折り、楽しみに待っている。そうして「楽しみに待っている」と書いたこの文字は、明日も明後日も自分は生き延びているだろうと、僕が嘘でも信じた証明になる。
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