一、夏の暑さもいよいよ不味くなってきた。昨日外に出たのですっかりばててしまい、今日は昼に歯医者へ行ったこと以外ままならない。手すさびに始めた『ポケモン シャイニングパール』もやる気が出ず、こんな調子ではこの夏は最低限の生存以外なにもできないと途方に暮れるも、本を取りに行った図書館の外壁の鏡に映る自分の姿はなかなかどうして丈夫のように見え、外見というのは殊にあてにならんなあと思った。心身の生気を蕩尽した感じが、見てくれには反映されていない。
といってもこれは、人の外見にまつわる観察眼を自分が微塵も有していないからだろう。世には、他人の服や靴までよく見ており記憶している人がいるので毎度感心する。
二、ニンテンドースイッチでシャイニングパールをやっていて、「ニンテンドーDS/3DS」というゲームハードの形が大変好きだったことに気づいた。本体は机に置いてしまい、タッチペンの下画面操作だけで進められるゲームだと尚良い。据え置きのゲーム機はどうも体力と集中力が要るので、10代以来まともにやり込んだゲームはない。
スイッチはそこへいくと比較的手軽なので、やることはやる。が、特に好きじゃない。ゆえにスイッチ2もかなりどうでもいいと思っており、「スイッチ2は全人類が欲しいものだ」となぜか信じている相手との会話には難儀する。こうなるとしかし「スイッチは2画面じゃないからダメ」という恐るべきDS懐古おじさんが爆誕するわけだが、もうそれでいいやと思ってきている。
三、9月から始まる『仮面ライダーゼッツ』の予告映像を観る。これは久々に自分に合いそうだと少し楽しみになった。つまり平成ライダー2期、特に2011年の『フォーゼ』以降のコミカルなテイストに振り落とされた視聴者でもこれならいけるのではないか(念のため付言すると2013年の『鎧武』だけはいけた)。
とはいえ、予告映像というのは基本的に本編とは関係ないものである。本編より予告映像のほうが面白かった例なんてごまんとあるわけなので、『ゼッツ』にも期待値を上げすぎてはいけない。あと予告映像が生成AI風、アメコミ風な理由もよくわからない。ただ予告映像は本編と関係なくても、仮面ライダーのデザインは本編ともちろん大いに関係するから、この初代オマージュ風のデザインであればnot for meな作品はさすがにお出しされないだろうとも踏んでいる。放送が始まったらこれは観る。
四、「美しい構造物(あるいは環境)を作ればよい」という意味で、会社の業務も、小説や同人誌づくりも、ある程度は同じことだと思うようになってきた(これを納得してもらうには説明が必要だろうが、今そんな体力気力はないので割愛する)。いま関わっている業務はひとつひとつの判断に必要な情報量が多いので、まだ一筋縄ではいかない。ビハインド状態が続き、余裕がなく、今もって危機といえる。
しかし売上を追うタイプの会社員にとっての「美しさ」というのは、「動的な情報集約装置であるところの自分の脳が、(数字の達成に繋がる)良質な判断を下しやすくなるような環境の整備」と同義だと思っているので、美しさの基準は一応シンプルではある。
対して小説や同人誌づくりの場合は(特にそれが生業ではない場合は)、自分にとっての「美しさ」を考えることから始めないといけない。そしてひとたびそのモードに入れば、自分の理想から外れる作品には得てして耽溺しにくくなる。それで三島由紀夫「豊饒の海」の読書は途絶している。代わりに尾崎翠の『第七官界彷徨』は、これは自分の今めざす美しさに近いかもしれないと感じたので、面白がって読んでいる。
となると、昔、特別親しいわけでもない同級生に「おまえの行動基準は美的なものだ」みたいなことを言われたとき、全然ピンと来なかったものだが、いまから思えば彼の眼は鋭かったことになる。蓋しその「美的」というのは身体的なものでもあり、観念的なものでもあり、今朝のようにSnow Manの目黒蓮が夢に出てきたりするのは前者に入るが、これは煎じ詰めれば醜形恐怖みたいなものと表裏一体のようでもあるので、自分としてよくよく留意する必要があろうと合点した。
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