このあいだ職場の何人かでいるときに「好きな食べ物と嫌いな食べ物って何?」の話になりました。踏み込んでない、とりとめのない話といえばそうなんだけど、ちょうどそういう平和な話をしたくて、実際に平和で、良かった。
ここで「毒にも薬にもならないくらいなら、毒のほうが面白かろう」みたく言う人もいるでしょう。でもそれはある意味破綻を楽しめる余裕と退屈さがあるから言えることで。むしろ破綻なんてそのうち迷惑なほど勝手にやってくるんだから、そうじゃないときは平和がいいです。
さて自分が何と答えたか。嫌いな食べ物はひとつだけなので、答えは決まっています。ワカサギの南蛮漬けです。昔小学校の給食で出たとき唯一完食できなかったメニュー。でもいつだったか湖のほとりの食堂みたいなところで良いやつを食べたら美味しかったので、給食のがたまたま微妙だっただけだと分かり、実質、嫌いな食べ物はもうありません。
まあそれは簡単な問いで、一方の「好きな食べ物は?」のほうが悩みどころ。だって好きな食べ物なんてめっちゃあるし。好きな女性のタイプは?と言われたときくらい困ります。否定形でなら答えられるんだけど。浮薄なギャルではない、とか、ステレオタイプな評論文の熱心な(つまりしばしば厄介な)読者ではない、とか。
ただ、「そんなもん日によるわ」とか「いっぱいあるので決められません」といった答えは、いくら本当にそう思っていたとしても、もちろん期待されていません。この話は「好きな食べ物をひとつに絞って決めるとしたら」という思考実験なんです。選択肢が無限にある中であえてそのひとつに決める、その意思の部分があればこそ人はきっと興味を感じるんでしょう。
人がなにかを言うときや語るときの説得力だって同じことです。同じ内容を言っていても、「その道に決めた人」の言うことだから真に迫って聞こえるというこの構造は、言葉のうしろにある人の意思と責任を我々が尊重する限り、変わらないはずです。逆に尊重しないようになれば、AIが言ってようが通りすがりの人が言ってようが関係なくなるのかもしれません。
そして、ほとんどの分野において「その道に決めてはない人」であるところの僕とかは、やっぱり「その道」側からなにかを語ることはできないんです。できないし、実際あまり関心もないし。逆に「消費者として」語ることはできるけども、それならそれで、しかるべき謙虚さは持っていたいなと。
で、最終的に好きな食べ物をなんと答えたか。確か「パフェ」と言ったあとに、いや食事について教えてくれと言われ、「じゃあ最近は南インド料理」と答えた気がします。でもこれにしても、ほんとは「最近は」の冠さえも削ったオールタイムベストを人は聞きたいんですかね? とはいえ人生における大事な選択でもあるまいし、ひとつに決めない自由さくらいは許して頂戴、というささやかな願いを込めての、「最近は」、でした。
P.S.
三島由紀夫の「豊饒の海」第一巻『春の雪』を読み始めました。4年前にも一度読んだらしいが全然覚えていない。まだ序盤ながら、『源氏物語』みたいで良い。自分は何人かの恩師の影響を受けて書き出しフェチみたいなところがあるので、冒頭の一文には「だらだらしやがって」と思ったが、読んでいくと文章も思いのほか良い。主人公のいる豪邸が渋谷だったのもすっかり忘れてて、渋谷にそんな場所なかろうが、って思ったけど、地図で見たら確かに渋谷エリアの中でも自分がいつもは全然行かないほうの渋谷だった。代官山とか中目黒寄りのほう。渋谷駅から首都高越えてそっちには行かんなー。と思った。
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