地獄だな、と思いながらシャワーをする。シャワーを終えて外に出るときには、この地獄のことを忘れていますようにと願って。シャワーは滝行に似ている。それを終えたころには別の自分に生まれ変われるような。そんな生まれ変わりの機会を毎日享受できているだけでも幸運だと思えばいいだろうか。
地獄だなんだと言ったっておまえは恵まれてるだろ、と笑われたり怒られたりすることに、いつも仄かに怯えている。しかし地獄云々はあくまで主観的な感覚の話であって、しかも、激烈な地獄ではなくて微温的な地獄というやつが確かに存在する。表面上は問題がないように見えても、裏側は軋んで朽ちてひび割れて、気づいたときには取り返しがつかなくなっている。
いつどこで間違っていまの状況になっているだろうか?と考える。大河ドラマ『いだてん』の終盤にそういう場面があって、悔やむ田畑政治=阿部サダヲの脳裏に大蔵大臣・高橋是清=ショーケンとの重厚な会談の場面がフラッシュバックする、たいへん見事な演出だった。しかし現実はそういうわけにはいかない。決定的な瞬間に一手を打ち間違えたのではなく、あらゆる瞬間、少しずつ、間違っていたのだ。
ところでこれまで人間は(というか俺は)時間的存在だと思っていたのだけど、空間的存在としての実態のほうがむしろ大きいのでは?と思うようになった。
ざっくりいえば「時間」は記憶に関係するから観念的・人間的・バーチャル的な概念で、他方の「空間」は身体的・動物的・リアリズム的な概念だと二分できる。だからわけあってガジェットとか家具とか居住空間といったものに対して頼りない希望の光を探し始めている自分は、まぎれもなく後者の、空間的存在としての位相を手に入れつつある。
強調しておくべき点として、自分の空間へのこの憧憬は、まだまだ始まったばかりである。つまり通常の人間が二十歳やそこらで経験するようなことを後追いでやっており、自分の人生にはこういうことが驚くほど多い。そのことも、恵まれている(と判定しうる)他人をむやみに恨み羨み憎み始める微温地獄の遠因にたびたびなってきたので、いつどこで間違ったのか?と探したくもなる。やっぱり、友人宅で免許の話題が出たとき、取るのを後回しにし始めた2015年のあのときか? あるいはなにはともなく東大に入ろうと思考停止で熱を上げ始めた2013年ごろ? 犯人捜しをやりだすと恐ろしい。
と、気づいたらまたこうして時間の中へとさかのぼっている。だいたい人間というのは基本的に、時間のことを考えてるか、空間のことを考えてるか、のどちらかなのだ。「今夜何食べようかな」はものを食べるときのことをイメージしてるから時間的な思考で、「この車両混んでるから隣に移ろう」はもちろん空間的な思考。また文学や批評や哲学はついつい時間に行きがちなのだけど、空間的な思考のなかに潜伏する豊かさをどう回復するか?が2030年代は重要なんじゃないだろうか。
などと考えつつも、きたるべき完全な空間のために、俺はまた本をブックスキャンに送って処分し、ガラクタを燃えるゴミの袋に放り込んでいる。


コメント