なにかをやることとやらないこと、とは何だろう?と考える。
メディア人や成功者たちは「なにかをやれ」と呼び掛けてくる。自分と同じことをやる生き物を増やしたいのは、きっと種としての保存本能みたいなものだから。他方で、「なにかをやらない」「やらずにおく」ことの自由もある。『何もしない』という早川書房の本を書店で見たことがあるが(それ自体はパラパラ見たところありがちな資本主義批判・アテンションエコノミー批判のようだったから読まなかったけれど)、むしろ昨今はそっちへの尊重が大事なんじゃないの?と思う。
それにしても、行動するとなにかがわかる、のは間違いない。そのなにかが自分にとって不都合な事実だとしても。向いてないなーとか、飽きてしまったなーとか、このままだと軋んで壊れていくなーとか、そういうのは、やらないとわからない。身が軋むまでやってみないと、軋んだ状態の自分がどう感じるのかはわからない。ごく当たり前のこととして。
ただ、そんなわけで、「とりあえずやってみる」のはいいことだとして。「やってみれば道が開けることもある」というのも正しいとして。一番嫌なのは、「やってみても特に道が開けず、あまつさえ好きだったものを嫌いになってしまった場合」だ。「とりあえずやってみよう」と告げる人たちは、そうなった場合のケアをどうしたらいいかまでは教えてくれない。誰もそこまでは責任を持てないからだ。
たぶん動物の行動ロジックの中には、あえて「やらない」を選ぶ場合も結構あるはず。そういうある種の保守性がないと危なくてしょうがないから。だいたいヒトだって、「この崖には近づかないほうがいいな」みたいなレベルではそういうロジックで動いてるはずだ。
でも、仮に脳と言語があることによって「とりあえずやる」という交感神経的な世界に生きるしかないんだとしたら、このヒトという種はいったいどうしようもなさすぎるんではないか。その「とりあえずやる」はしかも、脳と言語が生み出した理屈=「『こういう理由で』とりあえずやる」、といったロジックに裏付けられている。本当はその理屈は後付けに過ぎなくて、ロジックなんかより本能で決めたことだとしても。
タイトルに借りたのはポルノグラフィティ「峠の鬼」の一節。本能がそう告げているから、理屈ではなくてなにかを知りたいから、鬼は山を下り、人間の醜悪さを知り、山へと帰る。ここですぐに踵を返した鬼は賢い。これが1曲の歌詞でなく中編の寓話であったなら(芥川や太宰なんかが書いていそうな寓話風の近代小説)、複雑な人の世に魅入られて、なんらかの破滅を招くところまでいっていたに違いない。
蓋しこの鬼を救ったのは、この物語が邦楽のEPの1曲目であって過剰な展開は難しいという物理的な「短さ」なのだ。とすればここから得られる教訓は? 人を救ってくれるのは、日が昇り、日はまたすぐに暮れていく、地球が回っていることによって生まれるその条件。身体と世界の有限性。ついでに言えば、だからこそ「無限」という幻想は恐ろしく、五条悟の領域が流し込む「無限の情報」は最強の殺人兵器たりうる。
とりあえずやる、疲れたらやめる。自分の思い悩んでいるあれやこれやを「身体の疲労(身体のなかにはもちろん脳も含まれる)」に置き換える。あるいはたとえば今いる自分の部屋が気に入らないとか、そういうことのほうが問題だなと気が付けば、万難を排して解決を図る。しょせん動物だからね、と言ったら、あまりにも「2020年代的」な言葉すぎると人は笑うでしょうか。


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