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Innervisions

一、大きなうねりの中にいる。いま私の目の前には、無限の宇宙が広がっている。

なのに日ごとギリギリ軋むこの体と掌で選び取れるのはごくわずかで、掬った砂は指のあいだを落ちていく。

掴みそこねた砂粒の数を数えたい、と願う。ひとつひとつを慈しみたい、それぞれにまつわる誰かと盃でも交わしたいと思う。けれどそんな時間はない。轟々唸る時の炎は、郷愁を愉しむためのいとまさえもひとつずつ丁寧に焼き尽くす。

その炎から無事でいられるのは、それが燃え盛っていること自体を、自分の身が焦げついていること自体を、忘れている間だけなのだ。

二、ところで昨夜からの私の生活はこうである:

呪文力が足りないと思って『ルバイヤート』を読む。のち『平家物語』やそれにまつわるテクストを読む。祇園精舎の祇園は、少なくとも八坂神社の祇園とは直接の関係がないと知る(するとたとえば平家に出てくるあの祇園女御はいつから「祇園女御」だったんだろうか。同時代の聴衆の脳裏に、語り始めの「祇園」の三文字は何を想起させたのか?)。文学フリマ東京を経ていろいろイラっとしたので橋本治『「わからない」という方法』を半分読み感銘を受ける。夢に小森陽一先生が出てきたので、小森陽一『漱石深読』を読む。つい最近だと思っていたこの単行本が2020年の刊行だと知る。

三、外部に救いを求めるなかれ。救いは内部に探すもの。知人である画家の長谷川彰宏さんが以前こういうことを言っていて、これはまさしく真理だと思う。

とすれば昨夜からの私のように本を読む行為は、自分の外部になにかを求める行為でもあるし、それが再読の場合は内部にあるなにかを再発見するための行為である。最近文庫になった永田希さんの“再読”にまつわる本もいつか読みたいのだが、私見では「まだ見ぬテクストが、自分のなにかを変えてくれるはずだ」という読書はロマン主義的すぎてダメだということになる。しかしその願望がなければそもそも「初読」自体が発生しえないわけで、となると一度目の読書はつねに必ず失敗することになる。

同じように考える。「記憶」と向き合う行為は外部的なものなのか、内部的なものなのか?では人と会うことは? このあたり長谷川さんとまた話したいと思うし、彼とは『現代人第四号』で対話を載せたこともあるので、またなんらかの形で発表したい。ただ気を付けるべきは、彼は僧侶でもあるから私はついそこに答えを求めに行ってしまうのだが、そういう態度ではいけない。

四、発表とか同人誌とかいう話をすると、このごろはいつもダンバー数のことを思う。最初に知ったのはいつだったか忘れたが、Dr.STONEでも紹介されていた。「人間が社会関係を維持できる人数の認知的な上限って、150人くらいだよ」という話。

この理論がどのくらい妥当とされているのかは知らない(もちろん進化心理学の本だってそのうち読む。そのうちね)。ただ実感として「確かに」と思うところはある。フォロワーも増えているし知り合いも増えているけど、そのぶん古い付き合いに関しては、滲んだインクのように霞んでいく。必死にそれを繋ぎ止めようともしたくなるが、人間関係ってそもそも必死になればなるほどつらくなるから、私は自然の勢いに任せることが多い。結果、付き合いのある人というのはざっと150人くらいに収まっている、気がする。

認知の上限、っていうところが面白い。現実的に会話をしたり、リプライを交わしたりする人数自体は、体力さえ許せばいくらでも増やそうと思えば増やせる。ただ我々の脳内リソースは限られているから、「気に留めておける人」というのはやっぱり一定数に収まるんだろうと思う。

で、そう考えると。当たり前なんだけど「ふつうに」発信をしている場合、それをガッツリ受け取って読んでもらえる人の数の上限だってだいたいそのくらいに収まるんじゃない?と思うわけです。これをふつうにではなくて「戦略的に」やるのがインフルエンサーと呼ばれる人たちで、もちろんすごいことなんだけど、そこまではやれない我々としては、認知的な上限を前提とした上でいろんなことをやっていくのがいいんじゃない?というのが今日思ったこと。

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